KUAC Blog

慶應義塾大学アート・センターのお知らせや、活動のレポートをお届けします


【展覧会学生レポート】 アート・アーカイヴ資料展XIX × プリーツ・マシーン3:中嶋興―MY LIFE

展覧会「アート・アーカイヴ資料展XIX × プリーツ・マシーン3:中嶋興―MY LIFE」:(会期:2019年9月9日-11月1日)について、慶應義塾大学の学生、井上士郎さんにレポートを書いていただきました。

——–

私は宇宙人だった
感情を挟まず、生と死を観察する
視点が変わる
作者が闘っている姿が見える
真理と個の狭間で
私は同じ狭間に立つ共感者であり、戦友であり、求道者となってい

背景

初回の視聴
「MY LIFE」の初見の印象は、感情も触感も温度もない、監視カメラのようでた。
なぜ、私はそのように感じたのだろう。その感覚を呼び起こす源をていると、ある特徴に気づきます。
それは、カメラに動きがなく、ほぼ定点で(少なくとも私にはそう感じた)、葬儀に列席する親族を舐めるような横パンも、御産の為に慌ただくなる看護師を追うときも、なんとなくのっぺりといて、撮影者=当事者の目を感じない。さらにそれを見る視聴者とての私は、まるで人間という種の生を観察ている宇宙人のような気分になったからでた。

個人的な経験とて、私は父方の曽祖母と祖母の2人の葬儀に参加たことがあります。
その中で、どちらも当主であった父が、曽祖母を火葬するスイッチを押す時、長く間を取り、小さなボタンに全体重を乗せるように寄りかかって、やっとのことで押たこと。
祖母の時はスッと押、後になってから、「今回は躊躇わずに押せたよ」と少だけ誇らげに私に語ったこと。
また、私は祖母の死に目に立ち会いまたが、最期に無言で手を握りながら
恐らく彼女の記憶の中で最後の私は、思春期に入り気難い少年だったはずで、果たて彼女はそれを歓迎ていたのか、と考えていたこと。
今際の際ではすすり泣いていた親族が、臨終を迎え、私を残て病室を後にすると、事務的な段取りについて話始め
それが、当時の私には、皆で悲んでいるという状況を共有・確認するための嗚咽だったのかと不快に感じられたこと。

そのどれもが鮮明で、そうたものとは違った様相を示すこの作品にはどのような意図があるのだろう
人生の最大の出来事でさえ、側からみれば感情の起伏はあまり表に出ず、記憶の中でこそみずみずい。そういったことの表現だろうか。
そのようなことを考えながら視聴を続けていまた。

、それとは矛盾するように、作品の終盤には、作者の老いた義理の母と草原(庭?)に出歩くシーンで、彼女の特徴的な笑顔にフォーカスされ娘や息子とその子(作者の孫)が戯れるシーンでは親子の仲睦まじい様子が描かれ、文字通り映像に色味が還ってきて作品が終わります。
この演出が意図的なものだとするなら、一体どんな意識がそこにあったのだろう。そんな疑問や混乱を持ちつつの初回の視聴でた。

年表・プリーツマシーンを読んで

「動物的なサイクルの目・生物的なサイクルの目」という中嶋の言葉を見たとき、なるほどと得心がいった。
て、同時に私の感じていた疑問・違和感の正体も少掴めた。
それは、「芸術とは何か」という表に出ることはほとんどないが、私の水面下に常に存在続ける疑問に繋がっているのだった。

プリーツマシーンの冒頭にノーマン・マクラレンの「全てのフィルムは私にとって、ある種のダンスです。…」という言葉が登場する
偶然、私が最近読んだ音楽を題材とた小説が、“再現芸術との音楽とはなにか”を1つのテーマと据えていたこととリンクそこで考えていたことを思い出す。
その小説では、アトラクション的な音楽を否定的に捉え、エンターテインメント性を重要視ていた。
では、その違いは何か、エンターテインメントとはどういう事か。そこで思い当たったのは、「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊」という言葉だ。

これは元々、月庵宗光という僧の法語で。
我々の肉体は傀儡のようなもので、死とともにがらがらと崩れ落ちる。だからこそ、我々を動かている糸、またその操者(つまり真理)を意識、そこに近接ていくことで解脱を達成する重要性を説いたものである。
て、これを世阿弥がその著書『花鏡』で引用
芸能とはつまりその傀儡を見せることであるので、観る者に糸の存在を悟らせず、あくまで傀儡だけを見せながら糸を感じさせよ。ということらい。

つまり、作品に触れたときに、高揚や悲哀などの感情を想起させるだけでは足りず、その根底にあるものに想いを馳せる。、概念そのものが顔を覗かせるものではない。ある概念を湛えつつも、1人の個でいることを忘れてはならない。ということになろう

プリーツマシーンの助けを借りて解釈をするのならば、「MY LIFE」は生と死という生物的なサイクルを表現することと、その概念を最後にほんの少、自らに回帰させるということを、「一生一作」を掲げる編集者である中嶋興の動物的な目が行っている。
ここに違和感の鍵がある。
つまり、編集た地点での中嶋と、より時間的に隔たっている若い中嶋(「MY LIFE」の再生時間の若さに比例する)に乖離があればあるほどに、(プリーツマシーンの言葉を借りるなら)“色に限定される事のない、抽象化た家族”を映出す。
これは、視点(パースペクティブ)を変えるのならば、子とて父ての中嶋の存在を感じさせず。我々視聴者と第4の壁の間に立って、弁に語る編集者中嶋の存在を色濃くする。
そうて、想定される撮影者の人物像と、語り手が、同一人物であるはずなのに一致ないという違和感を覚えつつ、語られる内容に耳を傾けると、私達を取り巻き、私達に通底するなにかであるよりも、我々を包含、我々が属ている、生と死の境界とその貫通の話である。

この構図を、先程の「生死去来」の観点から見ると。「MY LIFE」は世阿弥の言うものよりも、月庵宗光の語り口に近い。
なるほど、(少なくとも「MY LIFE」における)中嶋興は、芸術家でもあり、さらにより哲学者であるのだろう

(※引用については私のこれまでの蓄積によるものなので、正確でない場合があることをご容赦下さい)

(記:井上士郎

Facebook

    慶應義塾大学アート・センター

    108-8345 東京都港区三田2-15-45
    t. 03-5427-1621 f. 03-5427-1620
    http://www.art-c.keio.ac.jp/
    平日 9:00-17:00

    Keio University Art Center

    2-15-45, Mita, Minato-ku, Tokyo, 108-8345, Japan
    t. +81-(0)3-5427-1621 f. +81-(0)3-5427-1620
    http://www.art-c.keio.ac.jp/
    9:00-17:00 weekdays